東京高等裁判所 昭和32年(う)2441号 判決
被告人 多々野郁文
〔抄 録〕
検察官控訴趣意第一、について。
所論は要するに、原判決は刑事訴訟法第三一九条第二項の法意を曲解してその適用を誤つたものである旨主張する。
仍つて審按するに、原判決はその理由の末尾において「仮に右被告人の自白が任意に述べられたものとしても、本件公訴事実に対しては唯一の証拠であるので刑事訴訟法第三一九条第二項により証拠とすることが出来ない」旨説示していること判文上洵に明かである。然し乍ら、自白を補強する証拠は必らずしも自白にかかる犯罪事実の全部に亘つてもれなくこれを裏づけるものでなくても、自白にかかる事実の真実性を保障し得るものであれば足りること最高裁判所の判例とするところであつて(最高裁判所第三小法廷昭和二五年一〇月一〇日判決最高裁判所判例集第四巻第一〇号一九五九頁参照)、当裁判所も亦これに従う。而して本件記録上現われている証拠を検討するに、本件の被害発生の事実の証拠としては被害者西岡功の被害届及び原審公判調書中証人西岡功の供述記載があり、被告人が本件被害発生当時被害者居室に約三時間以上も入つて居り当時他の下宿人は外出不在の事実、家人は被害者居室のある二階には上つていない事実、右居室には外部よりは出入のできない事実等については、原田テムの司法警察官に対する供述調書、原審検証調書原審公判調書中証人中川松子の供述記載等の証拠があり、これ等は総べて被告人の自白に対する補強証拠となり得ること勿論である。然るに原審においてはこれ等の補強証拠の存在を看過し、刑事訴訟法第三一九条第二項を適用しているのは正しくその法意を誤解してその適用を誤つたものと謂うべく、此の誤りは判決に影響を及ぼすことが明かであるから、此の点論旨はその理由があり原判決は到底破棄を免れない。
前同第二、について、
所論は要するに、原判決は被告人の司法警察員に対する自白は精神的威圧によるもので虚偽であつてこれによつては公訴事実を認めることができないとして無罪の言渡しをしたけれどもこれは事実誤認の違法があるものであると主張する。
ところで、原判決はその理由の末段において「被告人の司法警察員に対する自白に付検討するに被告人の自白の内容の一部である窃取金の使途に関する自白の裏付がなく反つて嘘の自白であると云うことが明白であり被告人が当法廷で右自白は精神的威圧による虚偽の自白であると供述しているが当法廷の被告人の他の供述から或はそうではなかつたかと肯認される」と説示しているのであるが、これにつき仔細に検討考覈すれば、
一、先ず被告人の自白が精神的威圧による虐偽の自白であるか否かを案ずるに、被告人はその前歴(記録九六、九七、一四五丁参照)より見て警察官の取調には相当な経験をもつて居るものと認められるのみならず、被告人は逮捕された晩においても警察官(市川保次)に対して「詳しい話は、加藤巡査にしてある。今晩は遅いので休ませてくれ」と述べている程であつて(記録一五〇丁参照)、此のことは被告人が警察官の取調を左程意に介していないことが窺われるところであつて、被告人が原審公判廷において、警察官の取調に当つて精神的な威圧を感じたかの如き供述をしているのは、むしろ、「ためにする」供述であつて到底措信し難いところである。
二、被告人の司法警察員に対する自白は虐偽であるとは断じ難い。
被告人は逮捕された当日、司法警察員宮地勇に対し「何かないかと戸棚をあけて見たら洋服の入つているボール箱の中にビニール製財布がありました」と供述している(記録八八丁参照)一方この取調に当つた宮地勇は原審公判廷において証人として「当時は被害届を見ず且つ被害者にも面接しないうちに被告人の取調をして調書を作成した」旨証言し(記録四四丁参照)、被害者西岡功は原審証人として「金は茶色のビニール製の財布の中に入れ、それを戸棚の中の洋服を入れるボール箱二個の上の方に入れておいた」旨証言しているのである(記録二七、三一丁裏)。かように、取調に当つた警察官が被害状況等を知る以前に、被告人はその点について詳細な供述をしているのであつて、その間いわゆる誘導尋問等の如き疑念を差し挿む余地は全然なく、前記被告人の供述は自ら経験しない限り供述し得ないところのものであり、右は窃取金額の点、その使途の点を別にして真実の供述であるものと認むべきを相当とする。而も此のことは被告人が検察官又は裁判官に対して全面的に公訴事実を認めていることに徴すれば(記録九〇、九三丁参照)、益々明かである。しかのみならず被告人は原審公判廷において犯行当時の所持金は合計八百円位で他に所持金はなかつた旨供述しているにかかわらず(記録一四三、一四四丁参照)、原判決言渡後の捜査の結果、被告人が犯行当時被害金額の一万八千円に類似する一万数千円の現金を所持していた事実が判明するに至つたことは被告人の前記自白が決して虚偽でなかつたことを裏書するに充分であつて、此の事実は、当審証人小玉雁常、同島田貞子、同島田トク各尋問調書の記載を綜合して認められるところである。
以上の理由により原判決が被告人の自白を以つて虚偽であるとして公訴事実を認めず無罪の言渡しをしたのは正しく事実誤認の違法があるものであつて、右違法は判決に影響を及ぼすことが明かであるから、此の点においても論旨はその理由があり、原判決は到底破棄を免れない。
註 当裁判所の認定した罪となるべき事実。
被告人は昭和三一年六月二〇日午後一時頃東京都杉並区天沼一ノ二三二番地中川要助方二階において西岡功所有の現金一万八千円を窃取したものである。
(工藤 草間 渡辺好)